泥中のオリーブ
あれだけ決意して別れを告げたにも関わらず、私達はあっさりと再会してしまった。
住所も職場も変えたというのに、日本は案外狭いものだ。それとも、私と彼女は何か強い因縁で引き寄せられているのだろうか。
「せっかくだから」と誘われるがまま、私は彼女の行きつけのバーへと足を踏み入れた。
ウッドベースが効いた低音ジャズが流れる店内で、彼女は三杯目のマティーニを傾けた。入店してまだ30分……さすがにペースが早くないかと私が口を開く前に、彼女は恨めしそうに私を睨みつけた。
「嘘でも良いから、”またね”って言ってくれれば良かったのに」
「え?」
「少しでも希望があれば、私は貴方を恨まずに済んだのに」
彼女はステンレスピックを手に取り、グラスに沈んだオリーブを何度も何度も突き刺した。深緑の実は少しずつ崩れて、透き通っていたカクテルが汚く濁ってゆく。
私はカルーアミルクをちびちびと啜りながら、どう答えたらいいのか迷った。
ついさっきまで、彼女は偶然の再会を喜んでいるように見えた。しかし今になって、自分の楽観的な思い込みがあまりにも浅はかであったことを思い知った。
「でも、けじめをつけないと私が長く苦しむことを知っていたから、貴方はそうしたんでしょう。そういう優しさも気に入らないわ。私を捨てて追いかけた夢はどうだった?楽しかった?それとも、辛かった?苦しいなら帰ってきてもいいわよ。なんせ私の胸はまだ、がら空きだもの」
“貴方が開けた穴で”と言外に言われた気がして、私は絞り出すように「ごめん」と呟いた。
下手な謝罪で、彼女の顔貌に激しい感情が渦巻く。次の瞬間、彼女は台無しになったマティーニを私のグラスにぶち込んだ。
「……ごめんなさい。酔って頭に血が上っていたみたい。でも、最後にひとつだけ仕返しをさせて。その気持ち悪いカクテルを飲み干してくれたら、今までのことは無かったことにしてあげる。私が貴方に抱く、怒りも、悲しみも、愛情も――全部ね」
目の前に突き付けられたのは、濁ったアルコールと崩れた実の欠片。茶色と緑が半端に混ざって、まるで発酵した沼地の泥のようだ。
見た目は最悪だが、別に劇物が入っているわけでもない。自分が彼女を裏切ったことと比べれば、このくらい何でもないだろう。私は彼女の要求に従い、汗をかいた冷たいグラスを一気に煽った。
最後の一口を飲み下す刹那、彼女が自嘲気味に笑った気がした。
その意味に気付いたのは、光の無い部屋で目覚めてから数分経った後だった。